応量器が届きました

「坊さんであること」を考えるとき、外見や内面から見ていくやり方もありますが、「坊さんだから、これを持っている」という見方もあります。
曹洞宗では、それは得度のときに師匠から授かる法衣であり、袈裟であり、血脈であります。
そしてもうひとつ。それは「応量器(おうりょうき)」という食器です。

このたび、ムスコズが得度を受けるにあたり、ネットでお世話になっている漆職人kotaさまより応量器を購入しました。
大本山永平寺に卸しておられるという実績ももちろんですが、応量器で使う箸に平たい形を採用されていることが目を惹いたのです。
応量器を使っての食事作法では、箸を器の上にのせたりすることがあります。
そのとき、断面が正方形ではすべって落ちやすいのです。そのため、平たい箸が使われてきたようです。
30年以上前に私が得度を受けたとき、授かった応量器にも、平たい箸がついていました。それは師匠に縁のある方が使っておられたものらしく、当時でも使い古され感がありましたが、新品と比べるとなんとも味わいのある控えめで上品なツヤを持っていました。
永平寺にいたときも、古参和尚さんから「これはいいものだから、大事に使えよ」とも言われた自慢の(?)一品でもあったのです。(ただ、箸はすでにダメになってて、私は四角いものを使っていました・・)
そんな思い入れがあるものですから、kotaさんのところを拝見したとき「この人はよく知ってるなぁ」と驚き、いつかムスコズが得度したらここのを使わせてもらおう、、と思っていたのです。

そして届けられたお品を見てびっくり。ピカピカしすぎてかえって品がなく見えてしまう、最近の応量器を見慣れていた目には、これが漆器というものなのか、、との驚きだったのでしょうか。ムスコズに使わせるにはもったいない。応量器を見てこんなに感激したのは初めてです(笑)


とりあえず広げてみました。私の写真では、とてもその品の良さをお伝えできませんが、その雰囲気だけでも。
中央のいちばん大きな器を「頭鉢(ずはつ)」といい、ご飯やおかゆを入れます。頭鉢はお釈迦さまの頭蓋骨をかたどったと言われ、口を直接つけることは許されません。
だから、さじがあるのですね。さじは頭鉢から食べるとき専用です。


応量器は6枚からなっています。いちばん小さいものを底に敷いてその上に頭鉢をのせ、中に残り4枚を入れます。
上にのっているのは「鉢単(はったん)」といって、広げて器の下に敷くものです。(これは私が永平寺で使っていたものです)


広げてみました。


箸とさじには、専用の袋があります。この箸とさじも、すごく繊細な作りです・・。


重ねた応量器をふくさで包み、上に膝掛けの布と箸袋をのせています。


「水板(みずいた)」というものです。これもkotaさんの品です。


水板の上に布巾を広げ、外側のふくさでしばります。下から捧げ持ち、運びます。

応量器を使っての作法は複雑でなかなか覚えられません。まるで茶道のお手前のようです。新米の坊さんが道場に入ったとき、いちばん苦労するのは、この応量器の扱いだと思います。
でも、覚えてしまうとムダが全くなく、もうこれしかない動きになります。食事作法をうるさく言うのは、もちろん、食事をいただけることへの感謝の意にほかなりません。
私も、今のふだんの生活で応量器を使うことはありませんが、手にするといろんな感情がわき上がります。坊さんとしてのアイデンティティにかかわるものだからかな。あ、ちょっとマジメな記事になっちゃったね、、スミマセン。。

(今記事は2009年5月27日に書いた文を、再投稿したものです。なお、この続編として「鉢単が届きました」を公開しています。こちらです。)

鉢単が届きました

ちょうど4年前、ムスコズが得度を受ける(坊さんの仲間入りをする儀式)にあたって、曹洞宗僧侶の必須持ちものである「応量器(おうりょうき-食器)」を購入しました。以前よりネット上でお世話になっており、偶然にも大本山永平寺にも卸しておられる、漆職人kotaさんのお店です。

そして、この度さらに「鉢単(はったん)」なる品が届きました。

これは、応量器を使って食事をする際に、器の下に敷くものです。
応量器は6つの食器が入れ子になってコンパクトに収納されるもので、鉢単は、折りたたんで応量器の上にのせてしまうのです。ですので頻繁に折りたたみされるため、折り目がすぐに傷んで切れてしまいがちです。
kotaさんも、かなり試行錯誤されたようですね。しかし、先に頂いた応量器にふさわしい鉢単でした。


黒革の財布ではありません。
和紙と漆でできた、これが鉢単なるものです。


こうやって広げて使います。


以前にお世話になった応量器。


鉢単の上に並べてみます。

応量器が届いたときの記事がこちらです。ムスコズにずっと使っていってもらいたいわけですが、良いものを使う縁に感謝をして所持していって欲しいトコロです。私も深く感謝しております。

(今記事は2013年3月28日に書いた文を、再投稿したものです)

被災地でお化けが見える・・

「お化けや幽霊が見える」という感覚が、東日本大震災の被災者を悩ませていて、宮城県宗教法人連絡協議会が電話で相談に乗る「心の相談室」を開設している、、というニュースを目にしました。
ニュース元 → こちら
これはとても興味深く、この相談の取り組みはとても重要なことだと思います。
失礼ながら想像するに、あまりに突然の不条理な、引き裂かれるような別れに、「心」がどうしたらいいのか苦しんでいるのかも知れません。
専門用語になりますが、「施無畏(せむい)」という仏教言葉があります。「畏れ無きを施す」・・つまり恐怖心を柔らげてさしあげよう、という働きです。ここに「施無畏」の働きが十分になされますよう、敬意をもってご紹介します。
 
↑じつはこれ、もとはフェイスブックで書いたネタだったのですが、そこへ「私も被災地でおなじ相談を受けた!」とか、「知り合いの住職に電話したら、「子どもたちが幽霊を見ると言ってる」と話してくれた!」とかのコメントをたくさんいただき、けっこう深刻な話しなのかも、、と思い、ここでも記事にさせていただきました。。

「真理」について

なんとも「宗教」なタイトルでありますね・・。いえ、オウム真理教についてではありません・・。
お釈迦さまがおさとりになった日にちなみ、ちょっと仏教専門的な記事で恐縮なのですが、自分の備忘を兼ねて書いてみました。
一般の方が、「宗教とは、信じるものである」と聞いたとき、とくに違和感を持たれないと思います。「仏教」に置き換えても、いっしょではないでしょうか。
しかしながら、少し仏教を勉強された方なら、仏教とは「仏の教え」であるとともに、「仏になる教え」でもあると耳にされているかも知れません。さらに専門用語で言うと、智慧(真理を見通すこと)をもって、無常や縁起(あらゆるものは条件によって変わり続け、永遠不変の実体を持たない)という真理であることを認識する、、のが仏になること、、でしょうか。
また、「宗教(もしくは仏教)は、慈悲を実践するものである」と言われて、なるほどそれはそうだよな、、と、ほとんどの方はお感じになると思います。
ただ、私自身、その智慧によって仏になることと、そこから慈悲の実践がなされることが、じつはどうしても直接的に結びつかなくて、、自分自身をおかしいなぁ、、と思っておりました。
そんなときに、このブログの文章を目にする機会があって、なるほどそうか! と、目から鱗が落ちた思いをいたしました。(このブログ主は南直哉師といって曹洞宗の方です。本や対談ものがいっぱい出てるので、わりと知られた人かと思います)
そこには、「真理は認識ではなく、信仰です」と書かれております。
そこで私は、なるほど、無常や縁起という真理を智慧で観るというのは、それはすでに認識を超えて信仰の域に入っているのだな、、と、つまり、信仰だから、言い換えるなら、信念だから慈悲の行いを日々できるのだな、、というように思い至ったのであります。
さらに読み進めると、「真理」はそう信じ、そう主張する者、すなわち「信仰」する者にとってしか「真理」たりえず、真理を「認識」していけば、しばしば、自らに反する意見や主張を徹底的に排除することがある、、とも書かれています。
以前、カルト問題に触れた本(『カルトか宗教か』竹下節子-文春新書)を読んだとき、「カルトかどうか判断するのは、教義そのものではなく、教団のあり方である」という文がありました。
「真理は信仰である」というとき、この文がまさにすっと通り、真理そのものが問われるのではなく、その真理を信仰する信仰者としてのあり方が問われるのだ、、と思うようになりました。
まあ私は坊さんで、お釈迦さまの説かれた真理を信仰しているのは間違いないわけなので、やっぱり周りに信仰者として見られていかなけりゃ、さび付いてしまうのかな、、と肝に(ほんのすこしだけ)銘じた今日でありました。

こどものおつとめ

おかげさまで授戒会はぶじに終わりました。坊さん方もお参りの方々も5日間まさに「同じ釜のメシを食う」状態が続くので、最後は感動のうちに解散することができます。
ただ、とても大きな行持なので滅多に行われず、また開催できる寺院も限られてくるのがネックではあります。。
 
さてさて話は変わるのですが、そのお寺でこんなものを見つけ、いただいて帰ってきました。(クリックすると大きくなります)

数十年前に日曜子ども学校みたいなことをされていて、そこに出入りしていた大学生さんに、当時のご住職がヒントを出されて作ってもらった、、とのこと。
「三帰(さんき)」「三法印(さんぼういん)」「四弘誓願(しぐせいがん)」「五戒(ごかい)」「六度(六波羅蜜-ろくはらみつ)」という、、まあ仏教の基本と言えるの一つ一つを、子どものために言い換えたものですね。そのあまりの見事さに、感動いたしました。これは私のセンスではできない・・。
しかしこれを子どもだけのものにするには、あまりにもったいない。私もいつか、りっぱなひとになりたいです。。

なぜ意思の力はあてにならないのか

仏教、とくに禅あたりでは「身心・・欲望を整える」ことを説きますが、これがじつに困難であろうことは、みなさまもかんたんにご想像がつかれると思います。
そんな中、この刺激的なタイトルの本を手に取り、とてもおもしろく、また示唆に富む内容にうんうんとうなずいておりました。

4757142641 なぜ意志の力はあてにならないのか―自己コントロールの文化史
ダニエル・アクスト 吉田 利子
エヌティティ出版 2011-08-09

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著者は心理学者ではなく、ジャーナリスト・エッセイストと紹介されています。その加減か、いろんな実験データを紹介してはいますが、述べているのはそこから得た感想と意見、、という感じで、綿密な論文というものではありません。
しかしながら、古き良き、節度あったアメリカが、どうしてこんなにも悪しき消費社会となってしまったのかを憂い、その理由と対策をまじめに考えてみようという態度の書きようであり、こちらも勉強になりました。
その理由として著者は、経済や技術の繁栄がもたらした豊かさが、元来持っていた私たちの文化や習慣を追い越してしまい、結果「自己コントロール力」を失ってきたことを挙げています。
そしてそのコントロールの喪失とは、今この瞬間が楽しければOKで、そのために起こる将来に、思いが至らないこととも指摘しています。
コントロール力の差は、たとえばIQが変わらないのに学校の成績が違ってきたり、ダラダラとゲームやインターネットから離れられなかったり、といったところに現れてくるそうで。私もヒヤッといたしますね・・。
その対策としては、自分が自分をコントロールできる、、と過信しないことにあるようです。意志の力をあてにせず、悪い習慣をもたらす環境を変え、良い習慣を持てということのようです。
我田引水になってしまって恐縮ですが、、仏教でも、環境を整えることを重視していると思います。また、自分を過信せず、いつも冷静に見ていられるようにすることも、禅に近い態度であろうと思いますね。

Stay hungry, Stay foolish

先日亡くなったスティーヴ・ジョブズ氏。私はぜんぜん知らなかったのですが、曹洞宗の和尚さんと交流があったりして、かなり禅について造詣の深い方でもらっしゃったのですね。
 

このところ、そこかしこで見られる映像。アメリカ屈指の一流大学であるスタンフォードでの、卒業式に招かれてのスピーチです。
これは後半部分で、死についてずばり語っています。卒業式に死を語るその勇気と、それを受け止める学生たちの懐の深さにも、とても感銘を受けます。
その中身は仏教としては伝統的な感じですが、それだけに真実の重みがあり、非常にスリリングですね。
スピーチ最後を飾る「Stay hungry, Stay foolish」は、曹洞宗で読まれる『宝鏡三昧(ほうきょうざんまい)』というお経の、「如愚如魯(ぐのごとく、ろのごとし)」という言葉を思い起こさせます。
何に対してhungryであればいいのか、何に対してfoolishであればいいのか、ちょっと考えさせられます。

ものごとを決めるつらさ

東日本大震災から半年にあたり、住職寺サイトの方でアップした小文を、こちらにも掲載させていただくことにします。
 
東日本大震災から、はや半年が過ぎました。被災された方々は、まだまだ大きな不安を抱きながら、毎日を手探りでお過ごしのことと思います。
過日の台風12号でも大きな被害がありました。亡くなった方の数は違えども、災害でたいせつな人を奪われたことへの悲しみは、ひとつひとつがそれぞれの重みを持っているものなのだと思うところです。
これから、少しずつではあっても、復興に向けて歩いて行かれることでしょう。その中では、おそらくいくつもの決断がなされていくのだろうと思います。そして、それは苦渋の選択を強いるものがあるとも想像します。
 
一般論になりますが、ものごとを決めるときのことをふりかえってみると、「これが100%正しい」と断言して選べるときというのは、もしかすると少ないかも知れません。
これで正しいのかどうか。80%、いや60%くらいしか正しくないかも知れないと悩みながら、でも決めなくてはいけない。
そしてその結果が、良いにしても悪いにしても、まずは受け止めていかなければならない。
ここをご覧のみなさんも、おそらく、このくり返しで人生を送ってこられたことと思います。
そして、きっとこれからも、このくり返しで人生を送っていかれることでしょう。
 
しかし、ときに決められないことがあるかも知れません。
 
ときに受け止められないことがあるかも知れません。
 
そんなときはどうぞ、苦しみを辛抱なさらないでください。
自分のまわりに、助けになれるものがあるか、どうか探してみてください。
そして苦しみに疲れたときは、ぜひ仏さまのお顔をごらんにおいでください。

お盆月に入りました

ついに8月に入り、お盆のお参りもぼちぼちと始まりました。今年はとくべつな思い入れを持って、お迎えをなされるお方も多いことと存じます。
 
人が死を怖がることはよく理解できますが、その中には「自分が忘れられてしまうのではないか」という思いも含まれている・・と聞き及んだことがあります。
ほんとうは、できるならば生きてお話のできるうちに、「そうじゃないんだ。忘れることはないんだ」と伝えられれば良いのですが。
とつぜんの別れなど、それがかなわないことはたくさんあるのでしょう。だからこそ、こういうお盆の機会に行動に示すというのはたいせつな営みなのだと思います。
 
でも、記憶はどんどん薄れていくものかも知れません。
そして、それは決して故人を裏切ることではありません。
意識に昇らなくなっても、じつは故人との思い出が自分の力になっているところは必ずあります。
今夏、お盆を迎えるすべての皆さまにとって、その思い出が、生きていく力となりますようお祈りしております。

亡くなって百日目のおつとめ

7月に入りまして、教区(お寺となり組)内のお盆法要が続いています。
来週行われるお寺さんからは、去る4月に亡くなった、そこの先代ご住職の百ヶ日法要も、あわせて勤めるとのご案内も頂きました。
百ヶ日とは、亡くなって百日目に行われるおつとめのことで、「卒哭忌(そっこくき)」という言い方もします。
「哭」を「卒」する、、泣くのを終える、、という言い換えができるでしょう。亡くなって百日。そろそろ涙ともおさらばしようか、、という思いが込められているわけですね。

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