いのちは願いを受けて生まれた

東日本大震災からふた月あまりがたちました。
あらためて被災の様子などをうかがうと、私たちの「いのち」はなんてはかなくて、不安定なものなのだろうと実感いたします。
私たちは、ふだん「いのち」に限りがあることに気がついていません。しかし、「いのち」には限りがあるのです。たいへん残念で、耐えがたい思いに駆られます。
 
そんなとき、ある布教師さんが書かれた、「「いのち」は願いを受けて生まれた。ポツンとそこにあるのではない。支えられて、生かされている」という文章を目にしました。
私たちのいのちは、ずっと伝わってきたいのちを受け継ぎ、たくさんの願いを受けながら生まれてきたものであり、今も大勢の人やモノに支えられているから、こうして生きていけるのだ、、という意味であるようです。
そう聞くと私たちは、「いのち」をたいせつにしなければと思うことでしょう。
それは、じつは「いのち」に限りがあることの証拠でもあります。もしもそうでなければ、あることが当たり前になり、大切に思うことも、愛おしく思うこともなくなるからです。
 
「いのちを愛しく大切にすること」と、「いのちが不安定で限りがあること」は、車の両輪のように離れることはありません。どちらかが消えれば、もうひとつも消えてしまいます。
いまぶじに暮らしておられるみなさまも、どうか、ときに思い出してください。私たちはその両輪のバランスの上で、毎日生きていることを。

降誕会2011

今日は、お釈迦さまがお生まれになった日であります。
ああ、お釈迦さま、この世にお生まれいただいて、本当にありがとうございました。
ずっと以前ですが、曹洞宗大本山の總持寺で、ある研修に参加させていただいたことがあります。そのときに、講師の和尚さんが「仏さまにだまされて、よくいらっしゃいました」というご挨拶をなされて、「うまい言い方をするなあ」と感じ入ったことがあります。
逆に、中国の禅語録なんかには、「もし仏に出会ったら、そんなもの殺してしまえ」なんていう言い方も出てきます。
さてさて仏さまは、私たちをだましているのか、それとも殺されるのを待っているのか。
つまり、私たちは仏さまに、とことんその身心を任せなければならない(だまされる)のか、私たちは仏さまを、とことん乗り越えていかなければならない(殺してしまう)のか、、じつはその両方なのか、さてさて、どちらでありましょうか。

涅槃会2011

およそ2500年前のことです。お釈迦さまは80歳のご生涯を閉じられました。今日はそのご命日。涅槃会にあたり、旧ブログでアップしていた記事に、書き加えて再掲させていただきます。
 
お釈迦さまが亡くなるご様子を伝える『大般涅槃経』 (南伝の方-和訳は岩波文庫「ブッダ最後の旅」 大乗経典では「遊行経」など)には、「もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成なさい」というご遺言が記されています。
 
先日お参りしたお宅、7年前に息子さん(私と同い年)を病気で亡くされました。
今でこそ落ち着いてこられましたが、一時はやはり、落胆されているお気持ちが強かったようです。
お父さん「できることなら、オレと代わってやりたかったよ」
お母さん「親や子を殺す人間が生きているのに、なんでうちの子が死ななくちゃならんのだろうと思うよ」
こういう文章だけで見ると弱音だけにも見えますが、実際には日々追われる用事もあり、「息子の分も!」という強さももちろんお持ちです。
 
息子さんの死は、このお二人に「もろもろの事象が過ぎ去る」ことを如実に見せつけていることでしょう。
そしてその後の時間は、「怠ることのない修行」を迫ります。
お釈迦さまのご遺言は、けっして別世界のものではなく、私たちが直面するかもしれないことを応援する言葉なのです。

オトコとオンナとカイミョーと

Twitterで先日、「戸籍上は男なのに心は女、でも性転換は受けていない」人が亡くなったとき、戒名は男性で付けるべきか女性で付けるべきか、、という問いかけがあって、非常に興味をそそりました。
聞いた人は(たぶん)浄土宗の和尚さんで、じっさいそういうシチュエーションに当たったわけではなく、以前から考えておられたことのようです。
で、瞬時に(!)何件かの答えが集まりました。とにかく遺族と相談すること、いずれを選択するにしても、浄土において性別は関係なくなる、、という教えに基づく信念をもとに授与すること、というトコロに落ち着いたようです。
遺族と相談する、というのは誠にそうですよね。とくに故人と遺族との間に、このことで葛藤があるとなると、ナカナカ悩みどころかも知れません。
これは私も遭遇しうる事態なので、このやりとりはとても勉強になりました。はるな愛さんならこっちかなぁ、、とか、マツコ・デラックスさんならこっちかなぁ、、と考えながら(笑)
 
なお、「戒名」自体には性別はありません。「戒名」の下に付く、「信士」や「信女」などの「位号」に性別があるのです。「位号」を見て、私たちは、ああこの人は女性だったのだな男性だったのだな、、ということがわかるわけです。
そういえば真宗の場合は「釈○○」という「法名」をお授けになりますが、以前は女性だと「釈尼○○」だったのに、最近は「尼」の字が無くなっていますか? それだとほんとうに、性別を意識せず授与することになるのでしょうね。

宇宙に浮かぶ道元

・・いや、オカルトな話しではありません。。
 
今日は日本に曹洞宗をお伝えになった道元禅師のお誕生日であります。西暦1200年ですから、、今から811年前のことであります。
それでフラフラとネットを見ておりましたら、なんと「道元」という名の小惑星があることを知りました。
小惑星は発見者が命名できるそうで、鹿児島のアマチュア天文家である向井優氏が、北海道の武石正憲氏との共同観測により、1991年に発見したものだそうです。間違いなくその名は、道元禅師に由来したものです。(ネタもと → Wikipedia
うーん、宗教者として世界に知られる道元禅師ですが、じつはその名は太陽系にまでとどろいていたのですね(笑)
 
星としての絶対等級は12.7度だそうで、、これは肉眼では観測不可能でしょう。
それでは心眼でうつすことに、、というと禅ではなくなっちゃう可能性が高いので、静かに想像するだけにして、今宵を過ごすことといたしましょう。

お経は本を見て読もう

先日、住職寺の方のHPをご覧になった方から、お経の録音に関するお問い合わせがあり、何度かメールのやりとりをしておりました。
その中で、「早く覚えられる様に・・」とおっしゃっていたのですが、いやいや、お経は本を見て読めばいいんですよ~とお返ししたりもしておりました。と言いますのは、私がそのように習ったからです。間違えてしまうリスクを避ける理由もあるでしょうが、「看読(かんどく)」という言葉もありまして、それが基本なのかなとも思います。
なので、ある和尚さんがお経本見ながら読んでいても、「あ? コイツお経覚えてないんか? 半人前だな」とまでは突っ込まないでくださいね(笑)
 
仏事をおこなうことを「回向(えこう)」するとも言います。たとえばご法事の場合なら、お釈迦さまの教えの詰まった語録であるところの、お経を唱えるという功徳をそのご先祖さまに振り向ける、、という意味になるのですね。
リクツとしては、大切な人が離れたところに住んでいたとして、その人のためにラジオに、お互いが大好きな曲をリクエストする、、ということにも似ているかなあ?? 「お経」と「大好きな曲」を重ねているわけですが、ちょっと強引ですか(笑)
 

私の愛用経本。ふつうの仏具屋さんで、450円くらいで買えます。

成道会2010


お釈迦さまがおさとりを開かれた日として、今日成道会には小豆粥をいただいております。
 
さてさて、お釈迦さまの伝記をつづるお経はいくつかあるようです(たとえば有名なのは『仏所行讃-ぶっしょぎょうさん』など)。それらには、おさとりを開いたお釈迦さまが、その内容を人々に伝えるのを躊躇したと書かれています。
世間の人々に、きちんと伝わることが難しいとお考えになったようですが、そこに「梵天」という神さまが現れ、お釈迦さまに教えを説かれるよう説得されたそうなのですね。
結果的にはそれが成功し、仏教として今に至ります。サンキュー梵天です。
どんなにすばらしいものでも、人によって伝わっていかなければ、その生命を生かせることができないわけでありますね。
その教えとは、多くの場合「縁起-えんぎ」という言葉で表現されます。
ここでわかりやすく申し上げることには、私の力が及びませんが、「私たちは縁起であるから、過去を反省し、未来をより良くしようと努力することができ」ますし、「私たちは縁起であるから、まわりの人たちや、ひいては世界の幸福を祈り生きることができ」ると言えます。
それに従って、心安らぎ、ほんとうの意味で満ち足りた人生を送れますように。。

師走に入るにあたり

曹洞宗では今日から、「臘八攝心(ろうはつせっしん)」という行持が始まります。
これは、12月8日におさとりをひらかれたお釈迦さまを追慕するものです。お釈迦さまのおさとりのお姿である坐禅をもって、その報恩をおこなうわけなのです。
大本山永平寺と總持寺をはじめ、いくつもの道場で、この臘八攝心がおこなわれます。お寺によっては、一般の方の参禅を受け入れているところもあろうかと思います。
ああ、曹洞宗に坐禅があってホント良かった(笑)
とはいえ、私自身を省みますと、日々の諸事におされてそこまで出来ていないのも正直なところ・・。せめてすこしだけでも、お釈迦さま、そして道元禅師や瑩山(けいざん)禅師に思いをはせる時間を取りたいです。
・・などと言いつつ、小腹が空いたのでこれから

をいただいてから、腰を上げることにいたしまする。。

あの世から後押し

先日、このときのお宅に、お逮夜にお伺いしたときのことです。
故人はゲートボールに熱心な方で、地元はもちろん、ほかの地域でも競技や指導をされていました。
しかし地元のチームはどうも弱いらしく、大会でなかなか勝てなかったそうです。
ところが、その人が亡くなってから開催された大会でそのチームはみごと優勝。大会後チームメートは全員で黙祷し本部席で号泣し、そのお宅にトロフィーを持ってきておまいりして帰られたそうなんですね。
いやいや、チームを指導されていた大切な方に捧げようとして、大会でのモチベーションが上がったのでしょうか。
チームの人たちは、そろって「故人が後押ししてくれた」と口にされたそうで、うーん、こういうときやっぱり、あの世って意味があるんだなあ、、としみじみ思います。
この話しを披露される奥さまもうれしそうで、故人は愛されていた人なんだなあ、、とまたまたしみじみ思ってしまいました。

で、10月と言えば

いよいよキンモクセイの香りが漂い始めました。うれしいなー。
さてさて、そんな昨日は禅宗にとっては重要な日でして、、ダルマさん(漢字で書くと達磨)の亡くなった日、達磨忌でありました。
お釈迦さま以来、脈々と伝えられてきた禅を、インドから初めて中国へもたらした方であります。今から、およそ1500年ほど前であります。
どんなに素晴らしいものでも、人によって伝わっていかなければ意味がありません。
達磨忌は、そんなことへ感謝する日でもありました。
 
で、感謝と言えば
なによりも感謝の言葉を口にし、偉大な記録を打ち立てたタイガースのマット・マートン選手。
来日1年目でこの数字ですからね。しかも右バッターだし。いやもう、凄いとしか言いようがないっすよ。
先日藤川が打たれて負けたベイスターズ戦、その9回裏2アウトからきっちりヒット打ったのを見て感服しましたね。あそこでよく気持ちを切らさずに集中できるなぁ、、って。
あと1試合ありますが、213安打からどこまでのせられるか。青木とはしばらくライバル関係で、おたがい数字を更新していって欲しいところですね。
 
で、更新と言えば
放射線治療を受けてはや6年半。今は、何はなくとも1年に1度、MRI検査を受けに行っています。まあ、カルテの更新みたいなものでしょうか。
で、それが昨日でありました。なじみの看護師さんが部署変わってたりして、早いようでも1年経ってるんだなぁと思いましたね。
難聴こそ治りませんが、まあ安定していますので良かった良かった。
しかし、思わぬ病気ではありました。病気は仏教で言う「四つの思い通りにならないこと」のひとつ。「四苦八苦」の四苦がそれであります。
 
で、四苦と言えば
老化も、その中のひとつであります。
私も四十半ば、、細かい字がつらいおトシごろとなってきました。で、今日は行きつけの眼鏡屋さんでちょっと検査してもらったのであります。
結果はやっぱり、ちょっと始まってますね、、とのこと。私はド近眼なので、レンズも両方いけるのを探さなければいけないのよね~。