ダルマさんの亡くなった日

よく選挙報道などで目にすることの多い「ダルマさん」 お坊さんです。
今から1500年ほど前、南インドでお生まれになったと伝わっています。そのころの日本は古墳時代。ずいぶんと昔の話しに思えます。
「ダルマ」を漢字で書くと「達磨(達摩とも書きます)」 『西遊記』に登場する三蔵法師の100年ほど先輩。禅宗のお寺では、達磨さまはインドから中国へ、初めて禅をお伝えになった方としてとても大切にされ、きちんとおまつりされているのですよ。
今日、10月5日は、その達磨さまがお亡くなりになった日。達磨忌として、供養を申し上げる日であるのです。
お寺で見る達磨さまは坐禅をするお姿ですね。中国(南北朝時代-漢と隋のあいだ)に来られ、黄河中流にある少林寺というお寺で、9年間坐禅をして過ごされたそうです。ちなみに少林寺とは、あの拳法の少林寺です。
体と心と息とをととのえる坐禅は、この時代に中国に伝わり、今の禅宗につながっているのです。
おきあがり小坊師の「ダルマさん」も、じつは坐禅をされているわけですね。ころばしてもころばしても起き上がる姿が、縁起ものとして珍重されるのでしょう。

両祖忌に


今日は寒いくらい。もう秋やね・・。気のせいかトンボも、さらに赤く見えます。
さてさて。曹洞宗では9月29日を「両祖忌(りょうそき)」といい、正しい仏法を日本に伝えられ教団の基礎を築かれた、道元禅師と瑩山禅師に供養を申し上げる日となっています。
禅宗に「仏祖正伝(ぶっそしょうでん)」という言葉があります。お釈迦さまより、正しく代々伝わってきている・・という意味で、曹洞宗の基本をなす信仰ですね。
とはいっても、その時代時代の制約を免れ得ないのも、また事実かと思います。また、仏教には「これだけが正しい教え」という教条主義的なところがうすいです。仏教が大きく、ダイナミックに変化しながら、さまざまな人たちの心の支えとなってきたのは、そんな理由からもくるのでしょう。
宗教は人間の営み。いわば生きものであります。
ちょっと抽象的な物言いで恐縮ですが、生きているから正しく伝わり、生きているから変わり続けるわけですね。変わりながら正しく伝わる、、とは、なんとも矛盾ですが、これは仏教のミソだと思いますね。まあ人間はもとより矛盾を内に秘めている生きもの、、ってことで。

秋彼岸入り


台風13号は甚大な被害・・には幸い至らず過ぎるでしょうか。京都では台風一過の虹も出ました。(携帯でもけっこうキレイにうつりますね。かなり補正はしましたが・・)
さてさて、明日から彼岸の入りです。
彼岸とは向こう岸のこと。悩み多い、今生きているこの世を此岸(しがん)といい、苦しみのない世界を向こう岸に求めたものです。ですが、それは「境涯」を言うもので、いわゆる来世とか、死後の世界とかとは違うんですよね。
だから、彼岸だろうが此岸だろうが、人生で降りかかってくる火の粉はいっしょだったりします。
そこで不満に生きるも一生。逆に満ち足りて生きるも一生。どちらを選んで生きましょうか・・。

防災の日に

今日は防災の日ということで、各地で行われた訓練の模様がニュースで紹介されたりしていましたね。
9月1日がその日というのは、1923年(大正12年)のこの日に起きた関東大震災の教訓を忘れない、という意味と、この時期に多い台風への心構えの意味があるそうです。
阪神淡路もそうですが、関東大震災も、とてつもない衝撃をもたらしたことでしょうね。混乱ゆえか、たとえば在日朝鮮人の方々が流言によって、殺されたり、、という話しもよく聞くところです。
災害という恐怖を直視できず、その不安がスケープゴートを作ることによって、一気に悪い形で噴出したと言えるのでしょうか。
防災では、いざという時に備え避難場所の確認や非常持ち出し袋を用意する、といったようなことが説かれます。さらに心のことでも、たとえば「自分はいま不安である」といったことをきちんと認められるような意識を、ふだんから訓練する必要もあるのかもしれません。
仏教、もしくは宗教について、「欲望を制御する方法」であるとか、「心のダイエット」であるとかの言いかたを耳にすることがあります。
おなじような意味で、「心の防災」という言いかたもできるのではないかと思います。
天災は外からやってくるのに対し、心の災害は自分自身の中の話し。しかし、防ぐためには自分だけでなく、まわりのことをよく見て理解する必要があるのは同じでしょう。

まだまだ暑いですが


雲だけは秋っぽくなってきたんだけどなあ。
えー、お盆参りも佳境に入ってきました。
日本の盂蘭盆会は先祖祭りですが、同時に農耕儀礼としての面もあるようです。キュウリやなすといった夏野菜、小麦から作るそうめんなどをお供えするのが、かつての収穫物奉納のなごりなわけですね(参照文献-『日本の仏教を知る事典』)。
お盆をにあたり、それぞれのお宅で、さまざまな思いを馳せておられるでしょうか。
お仕事でそれどころじゃない方は、、、空でも見上げてみましょうか。
それでグチが出てきたら、とりあえずこぼしておきましょうか(笑)

「仏って何?」「麻の布だよ」

 
永平寺にて。左は仏殿(ぶつでん-お釈迦さまをおまつりする)を上から見下ろしたもの。雨の加減でけむってますね。
右は龍門(りゅうもん-門前の道から永平寺に入るいちばん初めの門)横の寺碑と聖宝閣(しょうぼうかく-宝物殿)です。
永平寺に私がいたのは、もう20年も前。そのときとまったく変わっていないところと、がらっと変わってしまったところと、いろいろです。
4つ前の記事で紹介した「麻三斤」の額は変わっていないもの(かかっている場所は変わりました)。これを見ると、永平寺にいた頃のことをよく思い出します。
この言葉は、西暦900年代、唐から宋への過渡期に活躍した洞山守初(とうざんしゅしょ)という禅僧が、あるとき「仏とは何でしょうか」と問われたときの答えです。三斤の麻とは、ちょうど1人分の衣を作る量にあたるそうです。
「仏とは何か」と聞かれて「1人分の衣を作る麻のことだよ」との答え。うーん、ぜんぜん訳のわからない、まあ、まさに禅問答っていうヤツですね。
じつは、これを聞いてあらためて自分自身思うのは、日常の中で「仏とは何か」などとは問わないなぁ、、ということです。仏教徒としては、うかうか生きてるなぁ、、という反省かしら。
禅問答を習うには、他の問答などを参考にしながら、この問いと答えがなされ合うに至った経緯を想像し、自分の日常の中で実感していかなければならないでしょう。ところが、出てくる問い自体にピンと来るところがないと、答えにたどり着くのははるか遠い先なのかもしれません。やはり、こういうのを字面だけで追っても、まったく意味をなさないのです。
こういうとき、問いの「仏」を言い換えてみても参考になるかな。「生きるとは何か」とか、「老いるとは何か」とか、究極には、「死ぬとは何か」とか、かな。